ナチスのテープレコーダー
今回はナチスはテープレコーダーを利用してヒトラーの演説放送を繰り返し流していたことについて解説していきます。
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第二次世界大戦時にラジオを傍受した連合軍はヒトラーの演説が繰り返し何度も流れていることに驚きました。
連合軍側は毎日何時間もヒトラーが演説できるわけがないと考えていてどうやってラジオで放送しているか疑問でした。
当時は生放送が当たり前の時代だったので当然かもしれません。
簡易的な録音機はエジソンが発明しましたが、実用化するには耐久性や扱いにくさが問題でした。
ドイツ人技術者のフリッツ・フロイメルがプラスチックテープを採用して雑音やディスク交換なして流せるように改良しました。
これにより、ヒトラーがラジオで繰り返し演説を流すことが可能になりました。
ラジオがプロパガンダ効果をより発揮できるようになったと言えます。
つまり、テープレコーダーを開発し、ラジオでヒトラーの演説を何回も流せるようになってよりプロパガンダ効果を得られるようになりました。
軍用にもテープレコーダーは大いに活躍しました。
第二次世界大戦時のドイツの潜水艦Uボートに多くのテープレコーダーが搭載されました。
潜水艦が発信する通信電波は敵に自らの潜伏位置を知らせてしまう危険性がありました。しかし、テープレコーダーで通信内容を一旦録音してそれを早送り再生して送信することで傍受されても敵は内容読解が困難になったのです。
ヒトラーは断言と反復が指導者の思想や信念を群衆に植え付ける確実な手段と言っていました。テープレコーダーを使用し、何度も繰り返し同じ発言を放送することでナチスの思想を植え付けていったと言えます。
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ナチスのテレビ番組
今回はナチスのテレビを利用したプロパガンダ戦略について解説していきます。
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ナチスが初めて定期的にテレビ番組を放送しました。
ドイツの放送ネットワークを国有化した後、1936年にテレビ局パウル・ニプコーを開局したのです。
テレビ局の「パウル・ニプコー」は人名です。
パウル・ニプコーは1884年にニプコー円盤を開発してテレビ開発を進めました。
初めて機械式テレビを開発をしたのはスコットランドですが、それにはニプコー円盤が用いられてました。
ニプコー円盤を開発した功績からテレビ局の名前をパウル・ニプコーと命名して、帝国放送評議会のテレビジョン協議会の名誉会長となったのです。
当時のテレビには欠かせないブラウン管を発明したのもドイツ人です。
1897年にフェルディナント・ブラウンがブラウン管を発明しました。
ナチスが政権を取るまえから技術力は高いと言えます。
しかし、テレビ開発は世界的に見ても最先端だったが問題がひとつありました。
それはテレビが高価すぎて庶民は手に入れることが難しいことです。
当時発売予定だったのフォルクスワーゲンの2.5倍以上だとされています。
それだとテレビを開発して番組を放送しても誰も見てくれないのでベルリン市内にテレビ室を設置しました。
庶民のために無料でテレビを見ることができる部屋です。
第二次世界大戦開戦までに500室以上設置しました。
テレビ番組は政治的な番組もありましたが、娯楽番組が多かったのです。
プロパガンダ番組ばかりだと誰も見てくれないので料理番組やお見合い番組をメインに流していました。
当時のドイツは少子化が問題になっており、結婚資金貸付法を施行して結婚をする際に結婚資金を無利子で貸し付ける制度を設立しました。
子供が生まれるごとに返済金の4分の1が免除されて4人産めば全額が免除されました。
第一次世界大戦の敗北とその後の世界恐慌で、ドイツ中に失業者があ触れた結果、将来を悲観した人々はこどもをつくることをしなかったのです。
国の支援が必要でした。
つまり、ドイツはナチス政権を取る前からテレビを開発できるほどの技術を保有しており、ナチス政権下になると娯楽番組を流しナチスの考えも流すことによってテレビ番組がプロパガンダの役割を担っていたと言えます。
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ナチスの映画政策
今回はナチスの映画政策について解説していきます。
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ナチスは映画が大衆に与える影響が大きいと考えていて、プロパガンダの手段として利用していました。しかし、全面的にプロパガンダ丸出しの作品ばかりだと国民が見なくなるので、ほとんどの映画は娯楽映画だったのです。
ナチスが理想とする兵士や英雄の男や家庭的で子だくさんの母親ばかり出てくると観客は現実とのギャップで感情移入できなかったためだと言われています。
娯楽映画の前にプロパガンダを多く含む作品を上映する義務がありました。
見たい作品の前はニュース映画やドキュメンタリー映画を見る必要があったのです。
ナチス政権下で1100本以上の映画が制作されており、戦況が悪化していた1942年~44年であっても観客動員数は年間10億人を超えていました。
日ごとに厳しさを増していく戦況下で現実逃避する手段として映画を見ていたと予想されています。
現実から目をそらす目的で国民は娯楽映画を見に行くが、見たい映画の前にプロパガンダ映画を見なければならなかったのです。
映画の内容はハッピーエンドになるような作品や喜劇が多かったです。
戦争末期で敗戦が濃厚であっても幻想を見たかったのだろうと予想されます。
映画を制作するには事前に台本や原稿など事前に検閲されていたので政治的に好ましくない作品を制作することは不可能でした。
特に宣伝大臣のゲッベルスは映画制作を意のままに決定することができたので配役や制作指揮に多大な影響力を及ぼしました。
女性監督のレニ・リーフェンシュタールがプロパガンダ作品を作ったことで特に有名です。
初の監督と主演をつとめた映画「青の光」がヴェネチア国際映画祭で銀賞を受賞し、ヒトラーが彼女の才能を高く評価して直々に映画制作を依頼しました。
特に次の二つの作品が有名です。
一つ目が「オリンピア」
初のオリンピック記録映画として制作されヴェネチア映画祭でグランプリを受賞しています。ナチスが理想としている健康的な肉体美が表現さています。
二つ目が「意志の勝利」
ナチスの第6回全国党大会の記録映画です。
使用されたカメラは16台、スタッフは100人以上、撮影フィルムは60時間分に上り、当時としては大がかりなものでした。
ヒトラーが雲に覆われた空から太陽の光をバックに飛行機に乗ってニュルンベルクに到着するシーンはヒトラーを神や絶対的な存在として表現していると言われています。
ヒトラーが常に群衆を見下ろすように構成されています。
レニ・リーフェンシュタールは第二次世界大戦後の裁判において、
「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」との無罪判決を得て釈放されました。
しかし、ナチズムに協力した映画監督としては最も著名であったことで、生涯にわたって非難を浴び続けることになりました。反ナチズムの執拗な誹謗中傷や「ヒトラーの愛人」といった嘘が飛び交い失意のまま2003年に101歳で亡くなくなりました。
ナチスを正当化するプロパガンダ映画を作ろうと意図的にしていたのかは彼女しかわかりません。
ナチスは映画を利用してプロパガンダをしていたことが分かります。
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ナチスのラジオ戦略
今回はナチスのラジオでプロパガンダを行っていたことについて解説していきます。
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ナチスはラジオ番組を通じて国民にナチスの考えを植え付けていきました。
ラジオが庶民には手が出せないほど高価だったので、ナチスはラジオ制作メーカーを28社集めて安価なラジオを優先的に開発させました。
通常価格の半値以下の安さで販売されたラジオは大反響を呼び、数年でドイツの全家庭の7割が持つほどになったのです。6年間で販売台数は700万台を超えました。
ナチスは安価なラジオを作って宣伝活動を行いました。直接人を集めて集会をすると場所も時間もかかるからラジオを活用したのです。
軍需大臣のアルベルト・シュペーアがニュンベルク裁判の最終陳述で「ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった。」と発言しました。
つまり、国民を洗脳する手段としてラジオを利用することは大成功でした。
ラジオがあっても国民が聞いてくれないと意味がないので、国民ラジオの時間と言ってすべての者が仕事を中断して全国民がヒトラーの演説を聞くように仕向けました。どこでどのようにラジオ番組を聞いたかの報告も求められたのです。
ナチスがラジオで政治的なことばかりを喋っていたわけではなく、一般教養番組も放送していました。
女性向けの番組で洗濯の仕方や料理のレシピを紹介していのです。
女性は男性を奉仕する存在だとナチスは考えており、家事を上手にこなすことは女性の基本だと思っていました。料理は健康で強い体を作る目的があったのです。
一般教養番組でもナチスのメッセージが込められていたことが分かります。
ラジオ番組を通じて国民にナチスの考えを植え付けていました。
ただ、ベルリンフィルの演奏や純粋に楽しめる番組も提供して大衆が喜ぶ内容もあったため、ナチスのメッセージも受け入れやすかったのです。
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ナチス政権下のベルリンオリンピック
今回はナチス政権下のベルリンオリンピックについて解説します。
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ナチスが政権を握った3年後にベルリンでオリンピックが開催することが決定しました。
オリンピック憲章で人種・宗教・性別・政治によって、差別を行うことはオリンピック精神に反しています。
しかし、ユダヤ人差別はすでに始まっていたので開催が困難との予想がされていたのです。
最初はヨーロッパの国々とアメリカがナチスが人権侵害をしているとしてボイコットをしようとました。
ヒトラーも当初はさまざまな人種と一緒に競技をする五輪には乗り気ではなかったですが、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスが「ドイツの国力やアーリア人の優秀さを世界に見せつける絶好の機会」と位置づけてヒトラーを説得し、国の総力を挙げて開催準備を進めました。
プロパガンダ効果目的でドイツは五輪を開催する方向へ舵を取ったのです。
ユダヤ人の迫害を一時的に緩めたりヒトラー自身も、人種差別発言を抑えるなど国の政策を一時的に変更してまで大会を成功に導こうとしました。
最終的にボイコット予定だったヨーロッパの国々とアメリカも参加することを決意したのです。
ナチスオリンピックを通じて親切で良心的な国であるとのプロパガンダ効果が期待できたので開催に前向きとなりました。
選手団には出身国の文化や習慣に合わせたサービスが提供されて、夜は花火大会や演奏会を開いて楽しませたのです。
街には500人もの通訳が外国人観光客をサポートしました。
最も手厚くもてなしたのが報道陣です。
オリンピックを前にしたナチスはベルリンから反ユダヤ主義の色を消していました。
新聞にはユダヤ人を批判する記事を載せることを禁止し、国民にも差別的な発言をしないように命令しました。
逆にユダヤ人観光客にも親切にするように命じました。
オリンピック憲章に違反していないとアピールし、報道陣の宣伝効果は抜群でした。
報道陣や選手団、観光客を利用して親切で友好的なドイツという印象を植え付けることができました。
当時は情報収集できるものが新聞テレビラジオぐらいしかなく、ネットがないので世論誘導や情報操作が容易くできたのです。
オリンピックが失敗すれば意味がないので大会を盛り上げるために史上初の試みをいくつもやりました。
代表的なものは次の三つです。
一つ目が聖火リレー。
今や当たり前に行われている聖火リレーだが最初に行われたのはベルリンオリンピックでした。
古代オリンピックの発祥地のギリシアのオリンピアの聖火を採火してベルリンまで3000人のランナーが5か国を経由しました。
二つ目がテレビ実況中継。
当時の国では開発段階だったテレビ中継が試験的に導入されました。画像が鮮明でない場合が多く放送時間になるとたくさんの人が街頭テレビに群がりました。
三つ目が記録映画。
初めて五輪記録映画を制作しました。「オリンピア」という題名でヴェネチア映画祭でグランプリを受賞し、不朽の名作と言われるほど絶賛されました。
この記録映画の成功によって組織委員に大会記録映画の制作をIOCが義務付けたのです。
以上のことからナチスはベルリンオリンピックをプロパガンダとして政治利用していたことが分かります。
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ナチス式敬礼の真実
今回はナチス式敬礼の真実について解説していきます。
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今回はナチスドイツ式の敬礼ポーズである、ハイルヒトラー(ヒトラー万歳)について解説していきます。
実は単なる敬礼ポーズではないのです。
ハイルとはドイツ語で万歳、ハイルヒトラーとはヒトラー万歳という意味になり、この呼称を強制させることでナチスのプロパガンダ戦略が潜んでいると言われています。
独特なかけ声と敬礼を行うナチス式の挨拶は、1933年にヒトラー内閣が成立すると、ヒトラーへの揺るぎない忠誠の証として国家公務員を中心に義務づけられるようになりました。
しかも強制度合はかなり強く、たとえ手足に障害があったとしてもフレーズとポーズはしなければならなかったのです。右手がダメなら左手を上げるように指示されていました。
学校で授業の開始はナチス式の敬礼から始まり、子供たちはナチスの影響を受けていきました。
大人から子供までナチス式の挨拶を強制することで、いたるところでヒトラーへの称賛の声を聞くことになり、これがナチスの狙いだったと言われています。
宣伝相のゲッベルスは最高指導者であるヒトラーを人々が理屈抜きに崇拝するように仕向けるために、「ハイル」とうフレーズを使うよう強制しました。
国民は毎日のようにナチス式の挨拶を見たり聞いたりするようになって、ヒトラーへの忠誠心を刷り込まれ、挨拶を巧みに使って国民からの妄信的な支持を獲得していきました。
ちなみに、ナチス式敬礼は今はドイツとその周辺国では絶対にしてはいけません。
第二次世界大戦後のドイツでナチス式敬礼は「ナチ賛美・賞賛」とみなされて民衆扇動罪で逮捕処罰の対象になってしまいます。
これは観光客も例外ではないので、ドイツへ旅行するときは特に気を付けなければなりません。
数字の88と18にも気を付けないといけません。
「8」はアルファベットで「A」から数えて8番目の「H」に当たり「88」は「H・H」。ネオナチは「ハイル・ヒトラー(HEIL HITLER)」の意味で88を使うそうです。「18」は「A・H」で「アドルフ・ヒトラー」という意味になります。
P&Gがドイツで販売した洗剤の容器に「88」「18」の数字が印字されてたので販売を停止した事件がありました。
「88」「18」の数字を使っただけでは罪になることはないですが、タブー視されています。
日本だと学校で答えが分かったら手を挙げるますが、今のドイツは人差し指だけ伸ばしてナチス式敬礼に見えないようにしてます。
国が違えば挨拶や数字にも気を付けないと処罰される可能性があるので、旅行するときはその国についてよく調べてから行くようにしましょう。
最後まで読んでくださってありがとうございました。